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Family Academy読書は読解力だけでなく、人と人との絆も育む (2020栄冠めざしてFamilyより)

昨年12月には大学入学共通テストの記述式問題の導入見送りや国際学習到達度調査(PISA)における「読解力」分野の成績低下(前回8位→15位)など、国語教育に関するさまざまな事柄が注目を集めました。また、2022年度から始まる高校の次期学習指導要領の国語が、論理教育を重視するあまり文学を軽視しているのではないかとの意見も聞かれます。こうした「読解力低下」や「読書量の減少」などが話題になっている今だからこそ、国語教育における「文学教育」や「読書」の役割、重要性について、国語教育・読書教育に詳しい、山元隆春先生にお話をうかがいました。

広島大学大学院
教育学研究科・教育学部

(やま)

(もと)

(たか)

(はる)

P R O F I L E
1961年鹿児島県生まれ。1988年広島大学大学院教育学研究科博士後期課程単位取得後、鳴門教育大学勤務等を経て、2006年より現職。国語教育学専攻。博士(教育学)。博士在学中よりアメリカの「読者反応理論」に関心をもち、日本の教育・国語教育実践に生かすための研究に取り組んでいる。主な著書に、『文学教育基礎論の構築』(溪水社)、『読者反応を核とした「読解力」育成の足場づくり』(溪水社)、編著に『読書教育を学ぶ人のために』(世界思想社)がある。
  • 所属、役職などはすべて取材時のものです。

言葉の力を育む「文学教育」
絵本や漫画も広い意味での文学作品

「文学教育」は学校の国語教育において、文学作品の読み書きを通して言葉の力を育てる領域です。教科書では、学年に応じて児童文学や近代文学などの作品が教材に使用され、段階的に読解力を培っていくのです。また、読むだけではなく物語などを書くという、創作指導も文学教育の一つです。保護者の皆さんも学校で詩や俳句、短歌を作ったことを覚えているのではないでしょうか。文学教育には「読む」「書く」「聞く」「話す」の4領域があります。短歌、俳句、詩、物語など自分の世界を言葉で表現することに加え、創作した物語などを語り手として聞き手にストーリーテリングすることは「話す」文学教育ですし、朗読を聞くことは「聞く」文学教育と言えるでしょう。

文学作品と聞くと、長編小説などをイメージする方もいるかもしれません。しかし、文学作品を広くとらえれば、小説や詩に加えて絵本も文学の範疇と考えてよいと思います。絵本には、大人でもさまざまに解釈できる深いテーマを内包した優れた作品があります。また、イラストを中心に構成されたグラフィックノベルやコミック、漫画なども広い意味での文学作品と考えてよいでしょう。実際に、アメリカでは名作古典をグラフィックノベルで読み、その内容を議論する授業も行われています。日本でも、古典の授業で『源氏物語』を扱う際に、ストーリーを把握するために漫画版の『源氏物語』を読むのを勧める先生もいます。視覚的な要素を文学教育に取り入れ、子どもが文学作品に興味を持つためのきっかけ作りも国語教育においては大切なことだと思います。

文学作品の内容をどのように受け止めるかは、読み手によって異なります。そのため、同じ作品を読んでも、読者それぞれの頭の中にそれぞれの作品が生まれるのです。だから、「読み」は多様なものなのです。そうした多様な「読み」のためには、時には漫画などで子どもを作品に惹きつけてテクスト(文章)と交流させることが必要でしょう。

小説だからこそ他者の思考に入り込める
他者理解から自己理解へ

文学作品の中でも小説を読む場合は、ストーリーを追うだけでなく登場人物の心の動きに合わせて考えたり、共感したり、他人の思考構造に入り込むことができます。たとえば、夏目漱石の『こころ』では、2種類の「私」が語り手として登場します。冒頭で「先生」と出会う「私」と「先生と遺書」の「私(冒頭の「私」が先生と呼ぶ人物)」です。いずれの場合も読者は「私」の思考に入り、語り手の目を通して他の登場人物を見つめる経験をするのです。それと同時に、読者としての感想、自分の意見や考えをそれぞれの場面に重ねていきます。小説はストーリーが劇的に仕組まれていますので、話の筋や展開を追いかけながら他者の思考構造を追いかけていくことが可能なのです。実用的な文章や評論文では、筆者の思考を読者ができるだけそのまま受け取れるよう明瞭に書かれているため、こうした体験は難しいでしょう。

このように他者の思考構造に入り込む経験は、他者理解のきっかけを作ることにつながります。また、他者を理解することは自己を理解することにもつながります。小説を読んで登場人物に共感しているとき、読者はそうした自分自身に対して、なぜ共感しているのかと問うことで、共感を覚える自分自身を相対化するのです。つまり、登場人物を理解するということは、自分を理解することにもつながるのです。こうしたプロセスを繰り返し経験することで、他者に共感する力が育ち、未知の事態に遭遇したときにどう対応するかを考え判断する力が身についていきます。小説を読むことはこうした力を育む機会に他なりません。

これらはあまり教えられていませんが、非常に重要なことです。読書体験を通して、登場人物の心情を理解するだけではなく、自己理解がなされるので、心に作品の内容が残るのだと言えます。心の中に残ったものは、いわば小さな自分です。その小さな自分と対話をし、自分の過去の経験などを振り返りながら、登場人物の心情に重ねて読み進めます。そのため、人によって作品へのかかわり方が異なり、多様な「読み」によって読者の頭の中でそれぞれの作品が生まれるのです。文学作品は「読者+テクスト」で成り立っていると言ってもよいでしょう。

近代の小説を読むことは
人の歴史を学ぶこと

最近は、子どもたちが太宰治や夏目漱石などの書いた近代文学作品に触れる機会が減りつつあります。ライトノベルと比べると、語彙や言い回しが難しいからかもしれません。彼らの作品が書かれた当初は非常に新しい表現方法であっても、現代的視点に立てば古めかしく感じられてしまうのも無理はないでしょう。子どもたちにも分かる言葉に変換することは可能ですが、あの独特の文体や言い回しでなければ伝わらないこともあります。また、身の回りの道具や生活様式が作品の書かれた時代と現代とでは大きく変化していますので、作品中の生活の描写そのものが子どもたちには伝わりにくいこともあるでしょう。

しかし、近代の文学作品に触れることは、人の歴史や文化を知るための重要な役割を担っているのです。さらに広くとらえれば、人類の歴史に触れる機会を与えてくれるとも言えます。過去を知ったうえで現代を見ると、現在のことだけを見つめるよりも、現在に起こっている事象の意味がはるかによく分かります。他者の痛みも含めたいろいろな記憶を受け継ぐことで、同じ過ちを繰り返さなくて済むかもしれません。私たちが今何を選択するべきか、何を選択しない方がよいのかを伝えてくれるからです。子どもたちに近代の文学作品を読んでもらう意味はそこにあると考えてます。語彙や言い回しなどの言語的な抵抗を除いたり、作品の一部だけを読み聞かせたり、作品に触れるきっかけづくりやかじりやすくする工夫は必要です。実際に作品の文章に少しでも(1行でも)触れてみると、子どもたちにも作品のおもしろさがじかに伝わるのではないでしょうか。おもしろい言い回しを集めておいて、時々読み聞かせてもいいでしょう。

読書を繰り返すことで
自分の中に空間が生まれる

読書をしても読んだ内容を忘れてしまうため意味がない、と考える方がいるかもしれません。確かに作品を読むことによって、頭の中で自分なりの世界を創造し、読んだ内容についての意味づけを行ったとしても、しばらくすると読んだはずの小説の大半を忘れてしまいます。しかし、読書を繰り返していると頭の中に言葉などを受け入れる受け皿のような空間ができていきます。心の中にできると言い換えてもよいでしょう。もちろん、実体験によってもそうした空間は形成されますが、読書の場合はバーチャルな体験を通して作られていきます。そのため、実体験よりもはるかに多様な体験をすることが可能なのです。ただ、読んでいるときに考えたことや印象などは、時間と共に忘れてしまいます。読書は受容と忘却の繰り返しです。忘却することの方が多いですが、私はそれでも構わないと思います。なぜなら、読んだ内容のすべてを忘れてしまうことはなく、一部は心の中に残っていくからです。そうして残った一部が読書を繰り返すことで少しずつ大きくなっていき、それが自分の内部空間を少しずつ広げてくれるのです。

この内部空間は、他者の言葉を受け止め、理解を促すための大切な場になっています。この空間のスペースが広がると、他者を受け入れる量も大きくなるのです。その余地が足りずに他者を許容できない場合、他者の痛みが理解できずにトラブルとなり、暴力につながってしまうこともあるでしょう。それは他者を受け止める内部空間が十分にできていないからだと考えられます。読書が大切だと言われている理由の一つはここにあるのです。

そのため、自分にピッタリと合った本を選んで、読書を繰り返していくことのできる「自立した読者」を育てていくことが大切です。最初は保護者が選書をしてもよいと思います。ただ、読みやすさは考慮する必要があります。子どもの関心にピッタリと合っていても、1ページに分からない言葉や漢字が五つ以上出てくるとすらすらと読んで理解することは困難でしょう。それでは読んでいる途中で嫌になってしまうかもしれません。児童文学やヤングアダルト文学の中には読者に分かりやすく語りかける文体で書かれた本がありますので、そうしたものから始めるのもよいでしょう。また、内容だけでなく、表紙などの見た目から本を選ぶこともけっして悪い方法ではありません。テストや模擬試験に出た作品をきっかけにするのもよいです。いずれにせよ、自分のための選書ができるようになるということは、自己をしっかりと理解することにつながっていくのです。

読書習慣が人と人との絆をつくり、
AIとも支え合える力をつくる

読書の習慣づくりのための方法や試みには、これまで多くの実践があります。1960年代には椋鳩十の提唱で「母と子の20分間読書運動」が行われました。子どもの音読を保護者が聞き、褒めるなどの会話をすることで親子の絆と子どもの読む力の両方を育むものです。1980年代には村中李衣によって「読みあい」が提案されました。親子や夫婦や友人同士でお互いが選んだ本を読み合い、肯定的な感想を話し合うことで相互理解が深まります。人と人との間を文学が仲介するため争いにならないのがこの試みのポイントです。この「読みあい」は夫婦間などで関係性を回復することにも有用だと思いますよ。忙しい場合は、全文ではなく冒頭など一部だけの読み合いでもよいでしょう。これら過去の実践には学ぶべきところが多いため、今でもすぐに実践したいものです。こうした取り組みを続けていけば、読書能力や読解力を養うだけでなく、文学や本が人と人との絆を深める役割を果たすことにもなります。読書は人と人とのつながりや心の形成にもかかわるものなのです。

ここ数年、いずれは多くの仕事がAI(人工知能)に取って代わられるのではないかというニュースを、新聞やテレビなどで耳にすることが多くなりました。確かにAIは情報処理が速く、文をつなげたり比較したりしてどちらの文がより適切かを判断するなど、かなり高度な処理を行えます。記憶力や情報処理能力、峻別力では人間はAIに敵いません。

ただ、AIが他者に共感したり、その内面を理解したりすることはまだ難しいと思います。他者の思考構造に入り込んで、その人の視点で物事を考えることは今のところ人間にしかできません。人間がAIに勝つとか負けるという発想を持つかぎり、AIは人間の敵となるでしょう。しかし、私たち人間が補い合い、支え合う存在なのだということをプログラミングできれば、AIは人間の敵対者ではなく、理解者となるはずです。AIは人の心の鏡。だからこそ、「文学教育」は新たなテクノロジーとの幸福な関係を築く足場になるのです。

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