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  • 2023年5月1日

教員に求められるリベラルアーツ力 東京工業大学 副学長 上田紀行 教授

この記事のポイント!
  • この記事は、2022年度JCERIレポート「中高の先生方には、生徒たちの『生きる意味』や『自分なりの軸』を、共に考えていく姿勢が求められる」より作成しました。

自ら問いを創り出す東工大のリベラルアーツ教育

大学入試に特化した勉強ではイノベーションは起こせない

東工大では1996年に大規模な教育改革を実施しました。人文・社会科学系の教員を大学院に分属させ、専門教育の早期化を図り、即戦力の育成を強化することが主な目的でした。

ところが、専門教育の前倒しは、大学関係者が期待したような成果にはつながりませんでした。

それ以前の授業では学生から質問攻めにされ、質問の内容も高度で鋭いものでした。ところが、質問量が減っただけでなく、評価に関する質問ばかりになっていったのが、その後10年ほどの流れでした。

その頃からシラバスに授業のねらいや内容、授業評価の方法も示すようになっていましたし、日本全体が成果主義的な風潮にクローズアップされていたということもあったのかもしれません。評価につながらないことは無駄だからやりたくない、という風潮すら見られました。

高校時代に、受験する大学の入試科目だけに焦点を当てて、それ以外の学びは切り捨ててきた学生が増えた印象もありました。

東工大は「新しい分野を切り拓く人材の養成」を使命とする大学です。けれども、入試で高得点を取ることに特化した勉強をしてきた学生、評価だけを追い求めてきた学生に、イノベーションが起こせるはずもありません。ノーベル賞級の人とは、問題を解ける人ではなく、そこに解くべき問題があることを発見できる人だからです。

そもそも、誰かが作った問題を解けても、作問者を超えることはできません。「出された問題の設定自体が間違っているのではないか」「その問題を超える問題が存在するのではないか」など、自ら問いを創り出す力こそが重要です。

そうした問いのヒントは、大学入試の役には立たないからと、切り捨てていた分野に潜んでいることも多いのです。

1年次の「立志プロジェクト」からスタートする東工大のリベラルアーツ教育

強い危機感を抱いたことから、東工大で力を入れたのがリベラルアーツ教育です。

2016年から1年次の第1クォーターに「東工大立志プロジェクト」を開講。「自分の心がワクワクする分野は何か」「その分野で世界に貢献するために、自分が一生かけてチャレンジしたい問題は何か」など、自分の「生きる意味」や「軸」を考えさせる授業です。

週2回の開講で、木曜日に多彩な分野の専門家の講義を聴き、月曜日には1クラス28人ほどの少人数で、学生が4人1組で講義内容について批判的思考を働かせながら議論します。各グループはあえて異なる学院・系・コースの学生を混在させ、多様な考えに触れ、互いに刺激し合うようにしています。

第1クォーター終了時点では、学生一人ひとりが大学で何をしたいのか、自分なりの志を発表します。

その後も、3年次の第3・4クォーターで「教養卒論」を作成。4年次の研究室配属後に自分が取り組むテーマと、それが世界の中でどういう意味を持っているのかを、5千字から1万字で書きます。この際にも先の少人数クラスが再結集し、4人グループで集まって読み合わせ、議論します。

さらに、リベラルアーツ教育を大学院博士課程にも延伸。SDGsの課題を与えて、グループで解決方法を模索して、ポスターセッションを行う授業を必修にしています。

東工大生の読書量が大幅に増え多様で深い議論が活発化

こうしたリベラルアーツ教育は、着実な成果をあげています。入学直後から議論しあった友人ができる意義は大きく、学内が明るくなった感じがあります。

読書量も大幅に増えています。生協調べでは、前年の2015年の4~5月は、人文社会系の本の販売数はわずか75冊でしたが、2016年は750冊、2017年は1750冊と急増。東工大生は頭脳明晰であるものの、情報のインプット量が不足している印象がありましたが、読書量が増えることで、多様で深い議論ができるようになっています。

東工大の立志プロジェクトで考える「生きる意味」

「生きる意味」を取り戻すには苦悩とワクワクすることが大切

「立志プロジェクト」で考えさせている「生きる意味」とは何かについて、触れておくことにします。私は著書『生きる意味』の中で「生きる意味を取り戻すためには、苦悩することと、ワクワクすること」と書きました。

一点豪華主義でいいから、自分がワクワクして取り組み続けられる一点を持っている人は、多少の挫折があっても、必ず立て直すことができます。それに対して、すべての点で100点を取ることが素晴らしいと考えてしまう人は、常に欲求不満を抱え、自己効力感も低下してしまうのです。

ワクワクすることがあり、それに取り組むことが自分らしいと思えることが重要で、それが権威に抵抗する力にもなります。

苦悩したときには、相互に話せる存在も大切になります。

私のゼミ出身者に話を聞くと、かつての大企業では、誰かが「やばい」と声を上げたら、周りの社員が皆協力して、失敗を解消しようとしてくれたそうです。ところが成果主義が蔓延して以降は、自分の評価に関わるため、誰も「やばい」と言わなくなり、手柄話だけを上司の前で声高に語る雰囲気になったようです。

チャレンジには失敗が付き物なのですが、評価が下がるからと失敗を恐れ、何らチャレンジしようとしない社員が増えているらしく、極めて闇の深い問題だと感じています。

教育現場でも、生徒たちも先生方も、もっとおおらかに「やばい」と言えて、その失敗を皆で共有できる関係を構築することが重要になる気がします。

これからの中高教員に必要なリベラルアーツ力

アクティブラーニングでは先生方のリベラルアーツ力が問われる

中等教育でも、近年は「立志プロジェクト」と同様のアクティブラーニングを導入する学校が増えています。大学入試が「考える力」を重視する方向にシフトしている影響も大きいのでしょう。

ただし、単にアクティブラーニングを取り入れれば良いというものではありません。先生方の資質が問われることになります。

「本で心に刺さる言葉をどれだけ読んできたか」「ものすごく魂を燃やす体験をしたことがあるか」「挫折もしたが、それを踏み台にして人生を立て直して、何かを成し遂げたりなど、触れ幅の大きな人生経験を持っているか」といった先生方のリベラルアーツ力の高さが試されます。

先生方にその力が低ければ、生徒の尖った部分を受容できない恐れもあります。さらに言えば、学校の中にどれだけ多様な先生がいて、その多様性を生かせる環境にあるのかも、重要なポイントになるでしょう。

場合によっては、外部講師を活用して、多様性を高める方法も有効かもしれません。

子どもたちが出て行く社会と安泰な教員の立場とのギャップが課題

時代の急激な変化が中高教育を難しくしている面もあります。

以前訪問したマサチューセッツ工科大学(MIT)の教授は「MITでは最先端科学は教えない。なぜなら5年後には最先端ではなくなっているからだ。その分野が丸ごと消滅している可能性すらある」と語っていました。

これまでは優秀な成績を収めて、大企業に入社すれば安泰だと考えられていたかもしれません。

しかし今後は、人生の中で挫折が繰り返され、その都度軌道修正を図らなければならないでしょう。サクセスの時代からレジリエンスの時代に入ったと言ってもいいと思います。

それは学校現場でも認識されており、中高の学校説明会などでは「大企業に入れば安心ではなく、荒波の中で生き抜く力を、中高で身につけなければならない」と、異口同音に語っておられます。

しかしながら、先生方は果たしてこの言葉を自分事として語っておられるのでしょうか。おそらく多くの先生方は、自分の学校が潰れるという感覚は薄く、定年まで勤め続けられると考えているでしょう。

子どもたちがこれから出て行く社会と、教員という特権を得ている先生方の立場とのギャップがあまりにも大きく、それでは生徒には響かないだろうと思ってしまうのです。

では、どうすればいいのでしょうか。ヒントになるのがカウンセラーの仕事です。

カウンセラーはクライエントから、自分では経験していないような壮絶で悲惨な人生を打ち明けられることがあります。けれども、自分が経験していないからといって、カウンセリングを断念するわけではありません。異なる経験をしたクライエントの話に共感して、寄り添っていきます。

教員も同じで、生徒に寄り添って、生徒が自らの可能性を伸ばせるように励ましたり、あるいは生徒が気づいていない可能性に一緒に気づこうとしたり──。それができるプロになることが大切なのです。

つまり、ソクラテスの「無知の知」のように、まずは先生方が自分にはまだ知らないことがたくさんあると認識することが肝心です。まだ無知なのであれば、生徒たちに「生きる意味」を簡単に教えられるはずもなく、共に考えていく姿勢が求められます。

その意味では、教育者は一生学び続けなければならないし、これまで教育者として生きてきた素晴らしさを誇るだけでなく、その限定性というものも認識すべきでしょう。

今後の先生方には、そうしたことを考える「教育者の立志プロジェクト」のような取り組みも必要かもしれません。

プロデューサー兼伴走者としての中高教員

主義主張が合わない生徒の可能性をいかに伸ばしていけるか

今後の大学入試においては、総合型選抜や学校推薦型選抜が増加することが確実です。入試の多様化が進行すること自体は望ましいと思います。

ただし、私が危惧するのは、学校からの推薦がほしいあまり、先生に逆らわず、忖度する生徒が増えるのではないかということです。

それだけに、今後の先生方には、自分が権力性を備えていることを自覚して、自分と主義主張が合わない生徒に対しても、優れた才能の芽を発見するように努め、その生徒の素晴らしい可能性を伸ばせる進路に送り出していくような、ある種のプロデューサー的な役割を果たす姿勢が求められるのではないでしょうか。

まとめ

先生方の大きな生き甲斐は、自分の教科を教えることによって、生徒たちがどんどん分かるようになり、花開いてくれることでしょう。それを、点数を上げる教育に特化しているだけのように言われるのは、気の毒なことです。

当然のことながら、教科の力を高める教育が重要であることは、今後も変わりはありません。ただし、それだけではなく、生徒に「生きる意味」や「自分なりの軸」を見出させる教育も不可欠になっているわけです。

もちろん、これまで述べてきたように、「生きる意味」の深みを捉えることは、誰しも簡単にできることではないでしょう。それは教えられるものでもなく、生徒と共に考えていくという姿勢が大切になると、私は考えています。


上田 紀行(うえだ・のりゆき)

東京工業大学副学長(文理共創戦略担当)・リベラルアーツ研究教育院教授。博士(医学)。リベラルアーツ研究教育院の初代院長。著書『生きる意味』(岩波書店)のほか、編著『新・大学でなにを学ぶか』(岩波書店)、共著『とがったリーダーを育てる』(中公新書)など。

※所属・役職は2023年3月時点のもの

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